●コンテンポラリーダンスの流れと最新動向

坪池栄子(文化科学研究所)

 

◎舞踏と一線を画したコンテンポラリーダンスの興隆
 日本のダンスシーン(日本舞踊、民俗舞踊を除く)には、「クラシックバレエ」「モダンダンス」、土方巽を創始者とし、海外で高い評価を得ている「舞踏(※)」、既存のメソッドと一線を画し、アーティスト個々人がオリジナルな身体表現を追求している「コンテンポラリーダンス」の 4 つの流れがある。

 舞踏は、 2006 年 10 月に 100 歳を迎えた世界で最も尊敬されている舞踏家の大野一雄が記念イベントで改めてクローズアップされているほか、パリ市立劇場で 2 年に一度新作を発表し、意欲的な世界ツアーを行い、 2006 年には朝日舞台芸術賞グランプリに輝いた天児牛大率いる山海塾、 2002 年に 30 周年を迎えた大駱駝艦、即興ダンサーとしてだけでなく、振付家としても活躍している笠井叡など、今も第一世代を中心にシーンがつくられている。

 第二世代としては、長野県でジャンルを超えた「ダンス白州」を主宰し、 2005 年に朝日舞台芸術賞田中泯、個人での活動を行う傍ら、 89 年にダンスカンパニー枇杷系を設立し、若いダンサーを育ててきた山田せつ子(現・京都造形大学教授)、舞踏手として高く評価されている室伏鴻などが目に付くものの、舞踏のジャンル全体で見ると、新しい才能が次々に台頭するといった状況ではなくなっている。

 ただし、大駱駝艦が若手舞踏手を起用してスタートした壺中天公演シリーズ。また、室伏鴻が自らのカンパニーをもつ若手舞踏手(林貞之、鈴木ユキオ)とともに活動しているユニット Ko & Edge 、舞踏出身の伊藤キムがこれまでのカンパニーを解散し、新たにメンバーを募って 2007 年 7 月から試験会をはじめる新カンパニー「輝く未来」など、舞踏の遺伝子を受け継ぐ新世代のアーティストの台頭を予感させる動きもでてきている。

 60 年代から 80 年代まで日本の現代ダンスシーンを象徴した「舞踏」に対し、それに変わる新たな動きとして登場したのが「コンテンポラリーダンス」である。舞踏によって開拓された身体表現の可能性を新展開した勅使川原三郎が、 86 年にバニョレ国際振付家賞を受賞したのをきっかけに、こうした新しいダンスがコンテンポラリーダンスとして注目されるようになる。

 加えて、 80 年代半ばから、バブル経済下の円高により、それまで経費的に難しいとされてきた舞台芸術の招聘が盛んに行われるようになる。当時、世界をリードしていたヨーロッパのヌーベルダンスが、オペラやミュージカルと並んで招聘され、マスコミでも話題となる。こうした来日公演により、これまで日本には存在しなかったコンテンポラリーダンスの観客層が開拓され、現在のブームへと繋がっていく。

 バブル経済崩壊後も、海外の有名カンパニーの招聘に意欲的に取り組んでいる彩の国さいたま芸術劇場を筆頭に、世田谷パグリックシアター、びわ湖ホール、神奈川県民ホールなどの公立ホールが新たな担い手となり、また、音楽のプロモーターだったカンバセーションやキョードー東京などがダンスの招聘に乗り出し、ピナ・バウシュ、ウィリアム・フォーサイス、イリ・キリアン、フィリップ・ドゥクフレ、ローザスなど世界の一流アーティストやダンスをエンターテインメントとしてプロデュースした作品が見られる環境が続いている。

 こうした刺激も加わり、 90 年代には、勅使川原に次いでバニョレ国際振付家賞新人賞を受賞した伊藤キムのカンパニーや、独特の美意識に彩られたアクロバティックなパフォーマンスにより NY タイムズのダンス・オブ・ザ・イヤーを受賞し、世界に活動の場を広げている H ・アール・カオス、ダンスという枠にとらわれない自由な発想とユーモアが信条のイデビアン・クルー、マイムを新展開した水と油(現在、カンパニーとしての活動は休止。メンバーはソロ活動中)、学生服姿の男ばかりの踊りとコントでエンターテインメントとして大成功を収めているコンドルズなど、音楽、美術、映像などとのコラボレーションで評価の高いレニ・バッソ、珍しいキノコ舞踊団など、シアトリカルなパフォーマンスのカンパニーが次々に登場する。また、森山開次など、個性的なダンサーの公演にも多くの観客が集まる一種のコンテンポラリーダンスブームとなり、専門誌も発行される。

 2000 年代に入ると、公的な支援や民間企業の支援もあって同時多発的に始まったフェスティバルや賞などを通じて、 60 年代生まれ、 70 年代生まれの新世代アーティストが次々に台頭。 2002 年の第1回トヨタコレオグラフィーアワード・グランプリ「次代を担う振付家賞」を受賞した関西を拠点に活躍するクラシックバレエの出身の寺田みさこと砂連尾理(じぇれおおさむ)のデュオ、 2003 年、 2006 年の同賞をそれぞれ受賞した伊藤キムの元カンパニーメンバーである黒田育世( BATIK )と白井剛(発条ト)、同じく元カンパニーメンバーで同賞ファイナリストの遠田誠(まことクラブ)、演劇の演出家でありながら現代の若者の動作を演出に取り入れ、同賞ファイナリストになったチェルフィッチュの岡田利規、関西の公立ホール、伊丹アイホールが育てて同賞 2004 年のグランプリを受賞した東野祥子( BABY-Q )、横浜市の小劇場、 ST スポット出身の山田うんなど。技術も表現スタイルもさまざまなアーティスト・カンパニーが個性を競い合い、 80 年代の日本の演劇界に見られた小劇場演劇ブームに相応する活況となっている。

 今後を占う上で特筆しておかなければならないのが、子どもを対象にしたダンススクールの盛況である。かつては女の子の習い事としてバレエが定番となっていたが、高校生のダンスグループやストリートダンスのアーティストを取り上げたテレビ番組やヒップホップ系の音楽文化の影響もあり、ヒップポップやストリートダンスを指導する教室が各地に誕生している。近年、こうしたスクールに通う子どもたちが増えるなど、ダンスの裾野が大きく広がっている。こうした環境変化が日本のダンス表現に影響するのは必死で、その動向から目が離せない。


◎ダンススポットの誕生

 新世代アーティストが台頭した背景には、コンテンポラリーダンスの人材発掘と育成に尽力し続けたアートスペースの存在がある。 80 年代初めには、舞踏集団が自分たちで運営していた稽古場兼劇場(土方巽のアスベスト館、大駱駝艦の豊玉伽藍など)を除くと、ダンス公演を企画していたのは渋谷の小劇場のジァンジァンぐらいだった。その後、いくつかの民間企業がアートによるイメージアップを図り、芸術を支援する目的でホールをオープンし、コンテンポラリーダンスのプログラムを行うようになる( SPIRAL HALL 、パークタワーホール、アサヒアートスクエアなど)。特に、アサヒアートスクエアでは、ダンス評論家の桜井圭介がコーディネーターとなり、トヨタコレオグラフィーアワード・ファイナリストなどの若手アーティストをオムニバスで定期的に紹介する「吾妻橋ダンスクロッシング」を 2004 年にスタートし、好評を博している。

 90 年代後半から、不況で都心に生まれた空きビルなどの遊休スペースが次々と新しいアートスポットに生まれ変わるが、その中で登場してきたのが、現在のムーブメントの震源地となっているダンススポットの数々である。 10 分の小作品を集めたフェスティバルや観客が公演後に価格を決めるユニークな企画を多数行っている「セッションハウス」。日替わりでダンサーが競演する「ダンスが見たい」などを企画している「ディプラッツ」。横浜市立の小劇場を市民ボランティアが運営し( 2004 年に NPO 法人化)、気鋭のアーティストがキュレーターとして新人のオーディションから作品づくりまでサポートするなど、アーティストの卵たちの拠点になっている「 ST スポット」。 NPO 法人が運営し、関西のコンテンポラリーダンサーの登竜門にもなっている大阪の「 DANCE BOX 」など。いずれもダンスに理解のあるプロデューサーが責任者となり、連携しながらアーティストの育成を行っている。

 また、公立劇場の中にも伊丹アイホール、世田谷パブリックシアター、横浜赤レンガ倉庫(コンテポラリーダンスのソロおよびデュオのコンペティションとアジア地域の見本市を目指す「横浜ダンスコレクション R 」の主会場)、新潟市民芸術文化会館(ヨーロッパの一流カンパニーから U ターンした金森穣を舞踊部門の芸術監督に迎え、 2004 年に日本で初めて本格的なコンテンポラリーダンスのレジデンシャル・カンパニー Noism を設立)など、ダンスの拠点として名乗りをあげるところが生まれたのもシーンを支える大きな要素となっている。


◎民間支援と新世代プロデューサーの活躍

 90 年代には民間企業が社会貢献活動の一環としてアートに対する支援を行うようになる。その中で価値の定まらない新しい創造活動への支援を打ち出し、コンテンポラリーダンスを積極的に支援したのが、アサヒビール、キリンビール、トヨタ自動車、セゾン文化財団などである。特に、トヨタ自動車が、「次代の振付家の発掘」を目的に、世田谷パブリックシアターとの協力で 2001 年にスタートした「トヨタコレオグラフィーアワード」の果たした役割は大きい。しかし、同賞は昨年5回目を終え、事業の見直しを発表しており、その動向に注目が集まっている。

 コンテンポラリーダンスの活況を支えているもう一つの要素が、新世代のプロデューサー・制作者の活躍である。コンテンポラリーダンスでは、集団から独立したプロデューサー・制作者が制作会社を設立し、民間や公共から支援を受けながらダンスフェスティバルなどのさまざまな企画を実現する体制が整ってきた。

 また、 NPO 法人もこの領域において画期的な役割を果たすようになっている。例えば、 2001 年に設立された NPO 法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク (JCDN) は、アーティストなどが会員となって旗揚げしたもので、情報発信やチケット販売、出前公演やワークショップなど、ダンスの上演環境の整備と普及活動に共同で取り組んでいる。特に、 JCDN が行っている「踊りに行くぜ!」(若手のアーティストを選考し、複数組でプログラムをつくり全国巡回公演を実施)は新しいダンスに気軽に触れる機会を提供し、コンテンポラリーダンスの裾野を広げるのに貢献している。また、アーティストを小中学校に派遣している NPO 法人芸術家と子どもたちの活動にも、たくさんのダンサーが参加している。

 このように、新世代になってこれまで横の繋がりを嫌っていたアーティストたちが社会との関りを真剣に考えるようになるなど、意識が大きく変わってきた。また、芸術見本市にも積極的に参加するなど、海外進出意欲が高く、日本での評価が定まる前に海外でデビューするケースも多くなっている。新世代アーティストの力量は未知数の段階だが、こうした広がりによってこれまでにない飛躍が期待される。


※ 舞踏

 1959 年、当時 31 歳だった土方巽が、全日本芸術舞踊協会新人舞踊公演で『禁色』を発表したのが始まりとされる。三島由紀夫の同名小説をモチーフに、少年が股で鶏を絞め殺し、暗闇の中で男が少年を追いかけるというこの作品は、既成の舞踊が拠り所にしてきた一切の方法を捨てても踊りが成立することを示してセンセーションとなった。 70 年代には、土方を中心とした暗黒舞踏派、天才的舞踏手である大野一雄の即興舞踏派、笠井叡の天使館派の 3 派が軸となり、 72 年に麿赤兒が大駱駝艦(山海塾として国際的に活躍する天児牛大も所属)を結成するに至って、「白塗り、がに股、坊主、白眼」の異形の踊りが、舞踏の一般的なスタイルとして知られるようになる。国内よりも「 BUTOH 」として海外での評価のほうが高い。

 現在、土方巽の資料は慶応大学によって「土方巽アーカイブ」として管理・研究されている。



 

当ウエブサイトに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。

Copyright © 2007 Fundacion Japon en Mexico , All Rights Reserved.